現、空言、物語。

うつつ、そらこと、ものかたり。

月に蝶々


 
 ──君と私は運命だった。
 
 十九歳の夏、あの木陰で、段ボールに隣り合って座ったあの日、白い四日月と黒い蝶が重なったあの瞬間に、総てが決まったんだと私は思っている。
 きっと君は信じない。呆れたように笑って、そして、なんて言うだろう。カイロスの悪戯? クロノスの瞬き? もう私にはわからない。
 
 どの占いを見ても、君と私の誕生日の相性は最悪だった。だから、とは思っていないけれど、十一回の誕生日を一緒に過ごしたことはなかった。
 今日は偶然にも真ん中バースデーの日だよ、と私が言えば、反対から数えたら違う日になる、なんて皮肉めいたことを言う。あのとき、私は君になんて返したんだっけ。偶然と必然の話題になったのは別の日だったのかな。
 
 もう、ちゃんと思い出せなくなってしまったんだよ。
 
 並んで見つけた虹も、流れ星も。汐風、金木犀、夕立の匂いも。雪の日に耳を塞ぐ手の温もり、いろんな種類の雨音、廻る季節の繁り音。
 流れゆく雲を見上げて始まった小さな想像が、いつしか壮大な物語へと膨らんでしまった、空の青さ、夕陽の輝き、宵の藍色。
 花散る中で吐いた嘘、土星の環の消失、色違いを見つけた朝。
 ちゃんと憶えているけれど、順番はもうわからない。
 
 君はいつも月を見ていた。私がいつも月を探しているからだと、君は言っていた。北斗七星とオリオン座しかわからない私に、おうし座だけはわかると探し方を教えてくれた。
 私の知らない君の隣で夜空を見上げ、いくつもの曲で歌われたであろう、おうし座を教えた彼女が羨ましいと思った。
 
 今夜、おうし座の真ん中で月が満ちてゆく。世界の何処かで今日もまた、月下美人が花開く。
 
 砂時計はクロノスだと、君が言う。最後にひとつまみ、カイロスが砂を混ぜて完成させているのだと、私は思う。
 ノルニルが文字を使って運命を決め、モイライやパルカエが糸を使って寿命を決める。フォルトゥナが幸運の環を廻し、ホーラーが日々を豊かに彩る。
 いくつを君と話したんだっけ。もう忘れてしまった。
 
 世界の物語を知らずとも感じて歌う君の言葉は、ずっと残ってゆくから、いつまでも誰かの心に寄り添い続けると思うんだ。
 今、私がその証なんだよ。
  
 私の心に初めて宿った感情を表す言葉は、まだこの世に存在しないから、いつも歯痒くて、もどかしくて仕方がなかった。
 たぶんよく似た言葉を誰もが伝えあっていたけれど、どうにも嘘を吐いている感覚になって、なんだかしっくりこないし、だから一度も、私は君に言えなかった。あんなに何度も歌ってきたのに、君にだけ、言わなかった。
 
 もしも伝えていたならば、なにかが変わったんだろうか。
 すれ違いと、迷いと、困惑。意地を張り強がって、ぎこちなくて、歪んでいて、独りよがり。君も、私も、面倒なところは本当によく似ていたから。
 君の前で泣けたあの日のように素直でいられたら、限りある時間をもう少しだけ大切に過ごしていたら。
 運命が少しだけ揺らいだのかな。なんて、たまにそんなことを考えてしまうんだよ。
  
 最後に会ったとき、君が願った言葉の魔法は、今でも変わらずに私の心を灯している。もしかすると呪縛だったのかもしれない。
 私たちは初めて、その感情を言葉で交わした。約束をした。そして、大切を失った。
 
 君はこの世を去った。
 
 君と同じ歳になった。
 
 君より歳上になった。
 
 突然だったから、君が居なくなったということを認識するだけでも時間が必要だった。君もきっと、自分に起こったことを認めるのに時間がかかったんだよね。
 君が残した絶望から救ってくれたのは、君が残してくれた希望だった。
 切れた弦を交換して、奏で、歌ったのは、君が最初に教えてくれたあの曲だった。涙は止まらなかったけれど、最後までちゃんと歌えた。少しだけ誇らしかった。少しだけ救われた。
 
 生きようと思った。歌おうと思った。
 
 もう、ギターも持てなくなったんだ。歌も歌えなくなった。クイニーアマンもチョコレートも食べられなくなったし、カフェラテも飲めなくなった。
 唯一、残った片耳で、君の歌声だけを聴き続けてきたよ。
 
 今日、私も眠るよ。
 あのパーカーを着て、赤と黄色の花が咲くあの場所を夢見て、月が満ちるその時に。天鬼燈を灯すこの夜に。
 
 君はきっと河の畔まで迎えに来てくれるから、君の漕ぐ舟で一緒に、誕生日をお祝いしよう。今度は私がギターを弾くから、ふたつのバースデーソングを一緒に歌おう。
 
 揺らぐ月に蝶の影が重なれば、もう、それでいい。